+ 2003 MAY +

■■ 5.30.FRI■■
◆あれからもう4日も経ったのにまだ復旧作業は続いています。復旧というよりもすっかり模様替えなのですが、崩れ落ちた本やら雑誌やら資料やらを整理しているとなんとも懐かしいものとか忘れていたものとかが出てきて、そんなのに気を取られているうちに一日なんてあっという間に過ぎてしまい、結局今日までかかってしまいました。というかまだまだかかりそうです。この際だからと不要と思われるものは思いきって捨てることにしました。オークションにでも出そうかと思ったものの、やはり手間を考えると面倒なのです。ただその振り分け自体も大変な作業で、捨てるか残すかの基準をどこにもっていったらいいのか、これを残してこれを捨てるのは忍びないとか、一度は捨てようと分けておいたのにいざ梱包しようとしたときにやはりまだと思い直すとか、そんなこんなでまた時間を費やしてしまいます。もともと踏ん切りの悪い性格でして、そもそも踏ん切りがよければこんな状態にはならなかったわけで、とにかくひとつの作業に時間がかかりすぎていて、おまけに決心が付かないとその時点でどうしようかとぼんやりする始末だし、一度ぼんやりしてしまうと煙草の2、3本は吸ってしまうし、珈琲だって2杯くらいは飲んでしまうのです。どうにかして今日で終わらせて、遅れていた仕事に取り掛からねばと思ってはいるのですが、なんとなく今日もだらだらと無駄に時間を使うはめになるような気がしています。まあそれもまた楽しいと言えば楽しいわけで、それに落ち着かない状態で仕事をしたところでいいものができるはずはないしと、すっかり諦めています。
◆それにしても今回の地震は私にとっては過去最大のものでした。宮城沖地震のときは東京に住んでいたので、これまでで一番大きかったのは震度4くらいだったでしょうか。それがいきなり6弱ですから、本当にもう終わりだと思いました。まわりから本が押し寄せてきて膝まで積もって身動きできなくなり、パソコンやら本棚やらを押さえるのがやっとで、とにかく床は抜けるだろと咄嗟に思ったわけです。それでもとりあえず積み重なった本がクッションになるはずだから骨折くらいで済むだろうと簡単に諦めていて、スピーカーやら時計やらの落ちゆく様を見ていたり、物陰に隠れてゆく猫を確認していたりと、すこぶる冷静だったようです。揺れが止まるとまず一服しながらしばらくあたりを見まわしていて、さてこれからどうしたらいいのかを考えていました。少しして隣のカフェから呼ぶ声がして行ってみたら、大型冷蔵庫の上にある小型冷蔵庫がパックリと口を開けていまにも落ちそうな状態だったのでとりあえず元に戻し、床に散らばっている食器類の破片を除けながらお腹がすいたと言ったらこんなときにと怒られてしまい、すごすごと事務所に引き返し、電話は繋がらないので家にメールを入れ、そうこうしているうちに数人の知人からメールや掲示板への書き込みがあったので無事だと返信し、また一服したのです。本が床一面に積もっていたので、どうしてもその上を踏み越えなければならない状態なのですが、本を踏みつけるというのはなんとも心苦しいもので、江戸時代の踏み絵を想像してしまいました。
◆戦争も災害も事故もそうなのですが、被害や犠牲の多い少ないは必ず言われることで、多ければ惨事だし少なければ不幸中の幸いとなります。ただ、個人を考えれば、家族や知人がどうなったかが問題で、ひとりでも犠牲者がいればそれだけで惨事なわけです。数の多い少ないはここではなんの意味も持たず、おそらく千人の他人よりもひとりの家族の犠牲の方が比べようもないくらいの重さでのし掛かってくるはずです。たったひとりの犠牲でも決して蔑ろにしてはならないといつも思わされてしまいます。そして、たったひとりの他人の犠牲も家族や知人と同じように感じることができたらと、同時に思うわけです。


■■ 5.27.TUE■■
◆足の踏み場もないとはまさにこのことで、崩れ落ちた書物が一面に積もってまるで海のようにも見えるし、そう見えてくると、膝まで浸かった私の足は引いてゆく海水に砂をもっていかれる親指から中指あたりの裏のくすぐったい感触を甦らせていて、軽いめまいとともに両腕を後ろに持ち上げることでどうにか倒れないでいる上体を前後に揺らしながら、早い夏の波打ち際を思い出させてくれます。棚の上から落ちたスピーカーはなおも繊細な旋律を静かに奏でていて、もしかするとこの世でもっとも美しいのは世界核戦争の後の荒涼たる光景かもしれないと思えてくるし、歪んで傾きながらも妙な均衡を保ちながら数百冊の雑誌を抱えているふたつの本棚と足元に広がる崩れ落ちた書物とを見比べて、あの9月11日の前後を同時に再現しているようにも思わせてくれます。これは、そう、ショパンです。聴き入っていると、Eメールの届いたのを知らせるパソコンの音に神経を逆撫でられて、私は書物の海から上がることになるのです。ひび割れたモニターカバーを外し、椅子の上で膝を抱えた姿勢のままキーボードを叩き、安否を気遣ってくれた知人への返信を書き込みます。さっき家に電話を入れようとしたら有線も無線もどちらも繋がらなかったのに、インターネットだけはその役目を果たしています。安全を察知したのか、押し潰されずにすんだ黒猫が瓦礫の中から這い出てきました。
◆数時間が経ち、やっと床も見えてきて地に足の着いた私はこれ見よがしに事務所の整理をしています。席を立つのに書物の山を飛び越えなければならなかった昨日までにもどすのはどう考えても納得のゆくものではなく、せっかく崩れてくれたのだから、今度は椅子のまわりを歩けるくらいにはしておきたいものだと、すこしずつ本棚へと返しています。予想どおり、久しぶりに目にしたものはとりあえずページを捲って、忘れていた重みをいちいち確かめてから仕舞うものだから、とにかく時間はかかるのです。もうすっかり夜も明け、早い店からはシャッターのずり上がる音が聞こえてきます。ついつい文章を追ってしまうのをどうにか抑えて、もうすっかり忘れてしまった地球の躍動のときどき露わにする嫉妬心を制しながら、きっときょうは一日中こんなことをしているのだろうと、ひとりごつのです。
◆こうしている間に、外の往来は日常のごくありふれた様相を呈していて、もしかするときのうはなにも変わらずにあったのかもしれないと思えてきます。いつもどおりに地球は動いていただけなのす。変わったのは私ひとり、身動きのとれない部屋をどうにかしなければと思っていた苛立ちが幻想となって私の身に降りかかってきて、それをただ受け入れただけなのでしょう。きっときょうだってなにも変わらずにあるはずです。それならそれで潔くもなれるというもので、とりあえずはひと風呂浴びに帰るとします。


■■ 5.23.FRI■■
◆私の母は日本舞踊の師範です。家には舞台もあり、毎日のようにお弟子さん達が家にやってきて稽古をします。週に数回は出稽古もあり、そんなときはいつも父が車で送り迎えをします。いまその父は旅行に出ていて、当然その役目は私に回ってきます。きのうは隣町まで母を乗せて行きました。木曜日はその町の町営施設での稽古です。 いままで何度かこの役をつとめましたが、稽古が終わるまでの2時間、私は本屋をうろうろしています。こんなとき父は何をしているのでしょう。カメラをぶらさげて川縁でも歩くのか、それともゴルフの練習場にでも行くのか、母の送り迎えと同じように、それもまた父の楽しみでもあるのでしょう。
◆20年ほど前、永年勤めた職場をふたりいっしょに辞めました。定年前の退職です。電話局の交換手をしながらずっと日本舞踊を習っていた母は念願の舞踊家となり、市の職員だった父は母の世話役となりました。毎日のように稽古のある母はそれなりに忙しいようです。父は父で母の世話の他にお寺の役員をしていたり、知人医師の病院の顧問をしていたり、やはりなにかと動き回っています。今年72になる母は足腰がとても丈夫です。もちろん踊っている所為もあるのでしょうが、なによりよく歩くのです。5、6キロは平気で歩いてしまいます。しゃきしゃきとなかなかの速度です。73の父は若いころ陸上選手として活躍していました。四百メートルハードルを得意とし、国体にも何度か出たくらいです。ゴルフもスキーもまだまだ現役です。ここ数年、私の目には随分老けてきたように見えますが、それでも歳のわりには若い方でしょう。ふたりの仲はとてもよく、家ではいつも笑い声が聞こえています。それはもう羨ましい限りです。
◆きのう母を乗せているとき、ふとこんなことが過ぎってゆきました。どちらかが先立ってしまったらどうなるのだろう。仲のいい分、そのときの気の落ちようはどれほどのものか。先に逝くのはきっと父の方でしょう。私にはそう思えます。仮にそうなったとき、母はいったいどうなるのか。私が父の代わりに母の送り迎えをするのは簡単なことです。ただ、父がいなくなってからも母はそれを必要とするのか。もしかすると一気に老け込んでぼけてしまうかもしれません。しかしたとえそうなったとしても、それもまた羨ましいものだと、私には思えます。父の死は母のものですから。
◆今日も私は父の代役をつとめます。父が帰るのは明日。.静かだった私の家にもまた笑い声が響きわたるはずです。


■■ 5.20.TUE■■
◆一昨日、また秋田の十文字町に行って来ました。ライブ出演のためです。昨年12月のときは単独行動をとったのですが、今回は相方ちだ原人とポンコツを駆ってのふたり旅でした。石巻を出て、河南、涌谷、小牛田、古川、岩出山、鳴子、雄勝、湯沢、十文字という150キロ程の行程です。石巻で国道45号から分かれた108号は石巻別街道として古川へ向かいます。そして古川で4号を越えると北羽前街道となり47号と併走します。というか吸収ですね。鳴子からふたたび独立して仙秋ラインとも呼ばれる羽後街道として鬼首峠を越え、秋の宮温泉を下りて雄勝の13号へと吸い込まれてゆきます。その後この108号は13号を経てさらに矢島街道として本荘まで行くことになります。いわば東北横断街道というわけです。今回は雄勝からは13号である羽州街道に乗り、十文字を目指しました。11時に家を出て十文字に着いたのが3時でした。途中岩出山の『あ・ら・伊達な道の駅』で30分ほど休憩したこともあり、4時間もかかってしまいました。ポンコツの所為もあるのでしょうが、鬼首峠を越えるのに少々時間を費やしてしまったのです。とは言ってもポンコツだから上りに四苦八苦したのではなく、あまりの景色のすばらしさに始終見とれていたためで、相方の運転だっていつの間にか目的を忘れてしまうというものです。仙秋ラインがこんなに山深いところだったとは、十数年振りの今回はじめて気づきました。山々は入り乱れていて、緑の木々はまさに密生だし、残雪もあちらこちらに見つけることができ、狸だって横切ったりします。途中、山の上の方の傾斜の急なところに旧街道が見えました。いまにも崩れ落ちそうなところです。よくもあんなところを走っていたものだと驚かされます。入り組んだ緑の山々とそれをぬうつづら折りの谷川を見ていると、いまでもひっそりと山窩は暮らしているのかもしれないと思えてきます。映像で見た中東の荒涼たる風景とはまるで違っていて、八百万の神の存在を理解できます。私たちは恵まれていると思わず呟いてしまいました。中東には神を見出せるだけの自然はきっとないのでしょう、誰かを祭り上げるしかないのかもしれません。
◆そんなこんなで十文字に着いた私たちはすぐさま温泉に浸かりました。隣町、平鹿りんごの産地平鹿町の、金峰山の麓に広がる果樹園のなかにある温泉です。腰のあたりまで伸びたドレッドヘアー、ドレッドと言うよりももはや蜂の巣然とした固まりとでも言うべきかもしれません、それを頭の上にのせた相方の、巨大なリーゼントにも見えるその姿に、他人を装って笑いをこらえるのに精一杯だった私は、こんな片田舎ではきっとお年寄りばかりだろうと隣の女湯に想像を巡らすこともなく、のぼせて早めに上がって、待合いで相方を待っていました。ところがしばらくすると、女湯から次から次と若い女性たちがぞろぞろ出てくるではないですか。やられた、ミスった、時間よ戻れ。いやはや私としたことが不覚でした。それから想像したところで後の祭り。こんなに悔しかったことはここしばらくありませんでした。そんなことはどうでもいいのですが、とりあえず本来の目的であるライブは大いに盛り上がったし、打ち上げも楽しかったしで、なかなかいい思いをさせていただきました。
◆当初は十文字に一泊し、あわよくば鉄砲玉としてどこかに雲隠れでもして来ようかと思っていたのですが、なんとはなしにそのまま帰ってきてしまいました。もちろん帰路も仙秋ラインです。十文字を深夜1時に経った私たちは鬼首峠へと潜って行きました。小雨のぱらつく夜の峠は不気味な佇まいで覆いかぶさってくるものの、ライブの成功で気をよくしていた私たちにはほんの少しの効力すら発揮できないようでした。狐につままれたように、気がつけばもう峠を越えていました。会話の弾むなか、私たちは3時間程で家に着きました。そんなこんなで今回は日帰りツアーとなりましたが、心地よい疲れと秋口のライブの約束を手土産に、長い一日を深い眠りで終えることができました。


■■ 5.16.FRI■■
◆なくて七癖と言いますが、私にだって癖の七つくらいはもちろんあります。「腰に手をやる」「鼻を弄る」「唇を剥く」「煙草」「珈琲」「寝起きの悪さ」「湯船で寝る」。三つ目まではいかにも癖といった感じのものですが、あとの四つは一見癖とは言いにくいものかも知れません。ただ、辞書には「かたよった好みや傾向が習慣になったもの」とあるので、やはり癖と言ってもいいでしょう。「腰に手をやる」「鼻を弄る」「唇を剥く」はとにかく気づいたらそうしていたという類の、誰がなんと言おうと癖には違いないもので、例えば「腰に手をやる」のは、書店で背表紙を眺めているときなど、両の拳を腰に当てているといった具合で、はたから見ればいかにも恰好つけているように見える姿なのですが、両手をポケットに突っ込むよりもがこちらの方が私にとっては居心地がいいようなのです。「鼻を弄る」は、子どもの頃、たぶん10歳くらいだったはず、鼻の頭をつまんで引っ張ると鼻が高くなると、鼻の高い叔父に教えられ、それを実践しているうちに癖になったもので、それ以来ずっと鼻を弄り続けています。おかげで高くなるどころか、腫れて大きくなってしまい、面長の小さな顔だけにやけに鼻ばかりが目立つという、なんともバランスの悪い顔になってしまったのです。いまではそれが発展して、引っ張るというよりも撫でるといった感じで、頭から穴のあたりを撫でて、油の具合や鼻毛の伸び具合などを確かめたりしています。余談ですが、電動鼻毛切りはなかなかよくできていて、きれいに気持ちよく鼻毛を切ることができます。以前は鋏で切っていたのですが、加減を誤ると穴の内壁を切ってしまうこともあって少々危険だったし、切った毛がぱらぱらと落ちてくるので広げたティッシュの上でやらなければならないわけで、人に見られるととても恥ずかしいものです。もちろん電動鼻毛切りだって人に見せられる代物ではありませんが、あの手軽さといい振動といい、一度体験するとすっかり癖になってしまいます。「唇を剥く」のは、もともと荒れやすい唇をしていて、特に下唇はひどいもので、よく表面が剥がれてきます。時には無理に剥いて傷めてしまったり、やっと瘡蓋になったのを剥がしてしまったりと、いつも人差し指の腹と親指の爪で探っていて、とにかく少しでも引っかかりがあると剥かずにはいられないという具合です。荒れるから剥くのか、剥くから荒れるのか、もうわからない状態にまでなっています。「煙草」と「珈琲」はどちらも中毒なのですが、これもやはり私にとっては癖の割合も多いようです。何か事情があって吸えないとか飲めないとかがあると、それこそ体が求めているのがわかり、解放されるや否やすぐさま口にします。ただこの場合のそれはそうではなく、きっかけづくりだとか、タイミングをはかるだとか、そんなときのものです。これは決して体が求めてそうしているのではなく、まさに癖としか言いようがなく、それをしないと始まらないという、いわば掛け声や音頭のようなものです。そしてそれは日常頻繁にあり、それだけでもニコチン、カフェイン中毒になるはずです。というか、そうなったのです。「寝起きの悪さ」は、30歳になったからと健康診断を受けたときのこと、それまであまりの寝起きの悪さから自他共に低血圧だと認めていたはずなのに、血圧検査ではすこぶる正常だったのがどうにも不満で、血圧が上がって医者に食って掛かったら、それは単なる癖だと言われ、貧血を起こしそうなくらい驚かされてしまい、それ以来癖となりました。「湯船で寝る」のは、ここ一年くらいで急にそうなったのですが、私は毎日朝湯派で、起こされるとすぐ風呂に入ります。寝起きの悪さの延長からか、まずは湯船に浸かってひと寝するのです。ふだんは15分から30分程度で、長いと1時間2時間はざらです。これまでの最長記録は3時間でした。少々身の危険を覚えつつも週に2、3日は1、2時間寝ています。まあ自慢にもならないのですが、これがなんとも気持ちいいのです。ただ冬場はそうしているうちに湯も冷めてゆき、体もすっかり冷えてしまうのでいつ死んでもおかしくはないでしょう。そういえば以前は目が覚めるとベッドの脇のソファーに移り、半睡のまま音楽を聞くというのが毎日でした。いまは何から何まで事務所に持ってきてしまったためにそれもできないわけで、とにかく風呂で寝るしかないのです。とは言っても、決して早く起きるわけではなく、出勤時間ぎりぎりに起こされるのでそれはまさに遅刻を意味します。もちろん自営だし、従業員がいるわけでもないし、客には出かけていたと言い訳すればそれで済むし、こんなときほど会社員ではなかったのを喜ばしく思うことはありません。稀に約束があって遅刻できないときなどは、湯の温度を高めにします。すると逆上せて眠るどころの騒ぎではなく、どうしても上がらざるを得なくなります。とにかく、「寝起きの悪さ」も「湯船で寝る」のも結局は堕落ということになるのでしょうが、約束や遊びで出かける場合はそうはならないのですから、それほど大袈裟に捉えなくてもいいのかもしれません。
◆なにはともあれ、こんなくだらないことをぐだぐだだらだら書くのも癖といえば癖になるのでしょうね。


■■ 5.13.TUE■■
◆以前、山本夏彦・久世光彦の『昭和恋々』を紹介しましたが、その第二弾ともいうべき『昭和恋々・Part II』がつい先日出版されました。山本夏彦は昨年10月に亡くなったため、今回は久世光彦一人による『昭和恋々』です。例によって各タイトルをご紹介します。<少年のころ> 雛祭り、懐かしの本、女学生、三輪車、仔犬、木造校舎、竹馬、喧嘩、遠足、とんぼ釣り、蝋石、虫籠、ストーブ、雑巾がけ、<家族と刻んだ日々> 写真館、豆腐屋、おみくじ、通信簿、海水浴、燈火管制、トランプ、初詣、凧あげ、雪の朝、<人がいて暮らしがあって> 米搗き、鋳掛屋、井戸、番傘、団扇、風鈴、迎え火・送り火、捨て犬、自転車、薬局の看板、電話、焚火、火鉢、<そして昭和は遠くなる> 鯉のぼり、古本の露天市、帽子、花売り娘、バナナのたたき売り、広告塔、靴みがき、千人針、看板、人力車、上野動物園、クリスマス、日本髪、古物屋の大時計、坂道、六本木の朝。
◆今回もやはり私には馴染みのないものがいくつかありました。「燈火管制」「米搗き」「鋳掛屋」「迎え火・送り火」「古本の露天市」「花売り娘」「バナナのたたき売り」「広告塔」「千人針」「人力車」「上野動物園」「日本髪」「古物屋の大時計」「六本木の朝」などです。ほとんどは年代的に知らないものなのですが、「迎え火・送り火」という風習は私のところではなかったようで、「上野動物園」は象の話なので私にとっては鹿のいる「日和山公園」となるのでしょう。「古物屋の大時計」は「中古レコード屋のチャーリー・パーカー」だろうし、「六本木の朝」は付き合っていた女性とのことだから私の「渋谷の朝」です。まあそれはいいとして、多くは昭和を半分しか生きなかった私でも懐かしさ一入でした。
◆あとがきにこう書かれています。「このごろは、背景というものがなくなった。たとえば、五、六歳の子供を写した写真があるとする。昔はぼやけた背景に、お稲荷さんの赤い幟が風にはためいていた。写真の隅っこに、饅頭屋の蒸籠から上がる暖かそうな湯気が写っていた。遠くの空に羊雲が流れていた。町には顔があり、人にもそれに似合う顔があった。ところがいまは、子供の背景はどれもマンションの壁か、自動販売機ばかりである。怖ろしいことに、背景に個性がなくなった分、子供たちの表情も似たり寄ったりになってしまった」。こんな東北の田舎町にいても、それはよくわかります。それでも少し外れの、それこそ辺鄙な地域に行けば、少しは子供たちも背景も、個性的なところは残っています。私は仕事に疲れると、車を駆ってそんなところによく行きます。数十分で豊かな個性に出会えるのですからまだまだ恵まれているということでしょうか。
◆私の事務所の隣にあるカフェではいまでもレコードをかけています。ふだんはCDなのですが、店主の気分や客のリクエストによってはレコードをかけることもあります。こんな時、レコードのパチパチという埃の音がなんともノスタルジックでいいと、ほとんどの客は言います。もちろん懐かしさを感じさせてくれるのは確かなのですが、たとえばチャーリー・パーカーにしても、録音された現場ではきれいな音色で演奏されていたわけで、決してノイズなど混じっているはずはないのです。レコードは単に懐古趣味だったり、演奏よりもレコードを聴くというそのこと自体に意義があったりして、私はなにか釈然としない感覚におそわれます。できることなら当時のきれいな音色で聴きたいといつも思わされています。とはいっても、チャーリー・パーカーのライブを今ここで見ることはできないし、レコードのノイズを頭の中で消し去り、当時のアルトサックスの音色を思い浮かべたところで、そもそも本来の音色を知っているわけでもなく、だいいち私はレコードでしか聴いたことがないのですから、それは到底無理なわけで、最近はデジタル処理でノイズを消したり音色を調整したりすることも可能にはなったものの、どうしても胡散臭いものを覚えてならないし、それならレコードの方がまだ温かみはあるというもので、結局は妥協してしまうのです。
◆なにはともあれ、古いモノクロ写真もレコードも、懐かしさこそ醸し出してはくれますが、当時の背景や表情、音色をそのまま蘇らせるものではありません。なくなってしまったものはどう転んでも取り戻すことはできないのです。エリック・ドルフィーは遺作となったライブ盤『LAST DATE』の中でこう言っていました。「When you hear music, after it's over, it's gone in the air. You can never capture it agein. /音楽は発せられると同時に消えてしまい、二度と取り戻せない(拙訳)」と。再現はあくまでも仮の姿です。なにより大切なのはその現場にいることです。味のある背景も個性豊かな表情も、身をもって接することに意義があるのです。


■■ 5.9.FRI■■
◆久しぶりにセリーヌを読んでいます。セリーヌといってもシンガーでもブランドでもありません。ルイ・フェルディナンド・セリーヌ、糞尿と反吐と精液にまみれた絶望の淫売世界を蛆虫よろしくのたうちまわる、あの呪われた作家です。まあセリーヌ自身シャンソンを歌っていたらしいのでシンガーでもあったのでしょうが、もともと口語文体を創案した作家だし、言葉のリズムや音楽性を重要視したのは当然なはずですから、まんざらでもないのかもしれません。数年前に『セリーヌ・アンソロジー』という二枚組のCDも出ています。一枚は「夜の果てへの旅-戦争」「輪差」「セリーヌは語る」「夜の果てへの旅-アンルイユ母さん」「なしくずしの死」「インタビュー」。もう一枚は「なしくずしの死-卒業証明書」「なしくずしの死-イギリスへの出発」「精算」「アルベール・ズビンデンによるインタビュー」「去り行くはしけ」「ルイ・ポーウェルスによるインタビュー」。いやはやタイトルだけでも驚かされてしまいます。
◆L=F・セリーヌ(1894-1961)はあの『夜の果てへの旅』(1932年)で鮮烈なデビューを果たした作家で、ほとんどが下町の卑俗な口語体で書かれています。私がセリーヌと出会ったのは確か70年代の終わり、学生から社会人になるという一大転換の頃だったと思います。当時22歳の私は、ロックからジャズ、フリージャズ、そしてヨーロッパフリーへと音楽志向が移行していて、そんななかで巡り会った音楽批評家の間章の影響でセリーヌの名を知り、サックス奏者の阿部薫のレコード『なしくずしの死』で激情に冒され、そうして線路を滑るようにセリーヌの『なしくずしの死』に至ったのです。とにかくあの溢れ出る野卑で過激な言葉群に神経という神経はずたずたに引き裂かれてしまい、セリーヌと書いてあればなんでも手当たり次第に貪ったものです。『夜の果てへの旅』で一世を風靡したセリーヌは、その4年後(1936年)、この『なしくずしの死』を書いて爆発的な反響を呼んだそうです。もちろん批難と攻撃です。その書き出しはこうです。「又淋しくなった。こういったことはみんな実にのろくさくて、重苦しくて、やり切れない……やがておれも年をとる。そうしてやっとおしまいってわけだ。たくさんの人間がおれの部屋へやって来た。連中はいろんなことをしゃべった。大したことは言わなかった。みんな行っちまった。みんな年をとり、みじめでのろまになった、めいめいどっか世界の片隅で。……」(国書刊行会/高坂和彦訳)。こうして『なしくずしの死』ははじまり、ストーリーというよりも、良俗を侵犯した言葉群によって埋め尽くされてゆきます。セリーヌのあまりの非常識に批難と攻撃と悪意の渦巻くなか、数少ない理解者であった左翼ジャーナリストのビエール・シーズは、反祖国的言動から右翼の刻印を押されてしまったセリーヌをこう評価しています。「……この驚くべき歓声、この底知れぬ嘆き、抑え難く響きわたり、頁を追ってますます高鳴りゆくこの絶望の叫び、これこそは今まさに人類が発している赤裸々な叫びそのものである。……セリーヌを嫌う者は誰か? おお! 私は連中のことなら百も承知だ、一人残らず。それはこの人生の一切を容認し、何事にも逆らわず、あらゆる卑劣と妥協し、あらゆる不正に目を塞ぐ、あの数え切れない愚者の群だ!……温和しく、締め切った、生ぬるい連中……あの神にも唾棄される連中だ!……満ち足りた、おめでたい、何不足ない連中だ。……セリーヌは、彼は何物をも容認せず、抗い、反対し、罵り、怒号する種族である。……怒りを爆発させ、破城槌のように叩きつけるこの狂憤の書、われわれは到底その輪郭を測り知ることもできないだろう。地獄とは希望の剥奪のことであるというのが本当なら、これこそは悪魔の書である。これは人生の提起するあらゆる問に対して浴びせられた大いなる≪否(ノン)!≫だ。……セリーヌよ、あなたは今こそ欲するままに語り、行動するが良い、あなたは人類の絶望に声を与えたのだ。もはや黙することのない声を。……あなたがわれわれの努力をいかに非難しようとも私ははっきり言っておこう、≪あなたはわれわれのこの仕事を助けることになるのだ≫と」(訳者解説より)。
◆一昨日、なんとなくセリーヌを思い出した私は、本棚の奥からこれを引っぱり出し、いま読んでいます。そして当時と同じように打ちのめされ、神経を引き裂かれています。『なしくずしの死』が書かれた1936年は、スターリン圧政の頃です。当時の状況とはだいぶ違っているとは言え、セリーヌの罵声は見事に今に蘇らせることができます。なぜセリーヌを思い出したのかは自分でもわからないものの、なにかに扇動されてそうなってしまったのは確かです。それは、文章語を破壊し、陰語や卑語による生きた言葉での力の精髄なのかもしれないし、あるいは、あらゆる金権政治と全体主義を罵倒し、絶望的な不正と救いようのない貧困、虐げられた人間の苦痛と悲惨を訴えるセリーヌの雄叫びなのかもしれません。さて、いつまでもこうしてはいられません、自分なりの落とし前をつけるためにまたセリーヌに戻るとしますか。


■■ 5.6.TUE■■
◆10連休を宣言したものの、見事に毎日事務所に出ていて、ふだんとなにも変わらない日々を送っていました。粋といえば粋だし、野暮といえば野暮なのですが、それでも連休中だという安心感がいつも体のどこかを漂っていて、それはそれですこぶる心地のいい気分は味わったのです。事務所に出て何をしていたかというと、往々にして陥りがちなネット地獄だけはなんとしても避けようと、最低限必要な確認だけを行い、後は極力触れないようにしていたし、仕事もとにかくすまいと思っていて、それでも遅れていた仕事に手をつけたりはしながらも気分次第でどうにでもなること、嫌になったらすぐに止めてしまえばいいことで、結局は読みかけを捲ることになり、強いて言えば読書三昧といったところでしょうか、おかげで外しておいたカバーもだいぶ元の鞘に納まったようです。
◆そんなこんなしている間にも世間では相も変わらない愚かで醜い事件が頻発していて、よくもこれだけいろんなことがあるものだと思わされ、こうして特になにがあるというわけでもない日常に、ある種の歓びや心地よさを覚えていて、「ふつう」っていいものだと、なにをもって「ふつう」と言うのかはこの際どうでもいいことで、とにかく「ふつう」はいいと密かに思っているわけです。眠くなったら寝て、お腹がすいたら食べて、したいと思ったことをして、飽きたら止めて、気分の赴くまま、のんべんだらりと過ごすことのなんと気持ちのいいことか。これを優雅と見るか堕落と見るか、それは見る側の勝手な見方であって、その判断そのものはその人の感受性に関わる問題で、当の本人にとってはそんな見られ方にどれ程の効力があるわけでもなく、ただ「ふつう」に、もしかして本来持ち合わせている性質なのかもしれない「ふつう」を堪能するだけで、悦に浸ることができるわけです。気が向いてふらりと外に出て、煙草でも買い、カフェでお茶でも飲み、知り合いの店にでも顔を出し、こんな時はできるだけ知り合いには会いたくないものですがそれすら気分次第だし、そうしてまた事務所にもどり、ふっと一息ついてまた読みかけを捲るのです。
◆連休中、月はまた新しくなりました。何度目の新月なのか、考えてみると気の遠くなる話で、よくもこれだけ何回も何回も同じ事を繰り返してきたものだと感心させられるのですが、宇宙という観点から捉えればそれこそ取るに足らないことだろうし、それでも微妙なバランスを保つためのひとつの要因ではあるはずで、例えば体の具合のどこかが崩れていて妙に居心地が悪いのに気づいたとき、ふと指の先を見ると爪が少し伸びていて、そこで爪切りでパチンとするとどこからともなく空気のようなものがすっと抜け出て、こうして体のバランスは保たれているのでしょう、月の満ち欠けもまた宇宙にとっての均衡保持には貢献しているはずです。月が人に与える影響云々はよく言われることですが、人の具合もまた月へのなにかしらの関与は避けられないだろうし、指先の少し伸びた爪も、いつも切りすぎてしまったと後悔させられる深爪も、それはそれで月にとっては自らの宇宙での存在に匹敵するはずです。
◆なにはともあれ、こうして「ふつう」に過ごしているにも拘わらず、見たくもない現実を毎日突きつけられていると、嫌でも感情は萎えるだろうし、高ぶるだろうし、一見優雅とも堕落とも見られがちな「ふつう」のなかでも実はアドレナリンは沸々と湧き出ているわけで、そうして体のバランスは崩されてゆくのです。そうこうしているうちに月だって機嫌を損ねてしまい、もう数え切れないくらいの、天文学的回数を繰り返してきた満ち欠けさえも、止めてしまうかもしれないのです。
◆さて、今日からまたふだんとなにも変わらない日々のはじまりです。どうにかして「ふつう」を実践すべく、余計なことはさておいて、のんべんだらりと行くとしましょうか。


 

+++ kilie.com/mado/