+ 2003 MARCH +

■■ 3.25.TUE■■
◆ここのところ「テツandトモ」というお笑い二人組が大ブレイクしているようですね。あの「なんでだろう…」と歌いながら何気ない疑問を挙げまくる芸です。この手のテレビ番組はあまり見ない私でさえも何度か目にしているし、CDも売れていてラジオからよく流れてくるしで、何が面白いのかは私にはさっぱりわからないのですが、とにかくそのブレイクぶりは想像できます。この類のネタは以前からよくあっただろうし、二人のキャラクターだって特に珍しいとは思えず、いったい何がいいのか疑問なのです。ただ、これだけブレイクすると、それが終わってしまったら、もう「なんでだろう…」ネタはできなくなるでしょうね。聞いたところによると、二人は5年ほど前にコンビを結成して、その頃からこのネタはやっていたそうです。だとすると5年もそのネタをやり続けて、少しずつ人気を得てきて、ここに来ての大ブレイクとなったのでしょう。よく考えてみればこの大ブレイクというものほど恐いものはなく、終われば一気に奈落の底です。特に最近はそのブレイク期間は極端に短くなっているようで、半年保てばいい方でしょう。あとは飽きられて、忘れられて、ポイとなるのです。5年も研究して煮詰めて作りあげられたネタは一瞬にして闇に葬り去られるのです。あと数ヶ月もすればこのネタはできなくなり、代わりに何かを編み出したところで二番煎じは通用しないだろうし、気がつけば時すでに遅し。そうなる前に、ドラマに出演するとか、レギュラーとして番組に潜り込むとか、別の道を選ばないと、2、3年後には、あの人は今どうしているのでしょうなどという番組のネタにでもされるのがオチです。ファンの方には申し訳ないのですが、なんとも可愛そうなものだと、目にする度、耳にする度、思わされてしまいます。
◆これまでどれだけの人が大ブレイクの被害に遭ってきたことでしょう。その後の奈落の底を何人体験したことでしょう。何かひとつこれだとなると皆そちらを向き、新たにいいものが出ると今度は皆あちらを向く。昔からそうだったのかもしれませんが、ここ数年特にひどいような気がしてならないのです。そのサイクルは確実に短くなっていて、目にも止まらぬ速度で次から次へと移り変わり忘れ去られているようです。
◆躍らされる私たちにも責任はあるのでしょうが、そもそもはメディアの責任が大きいと言えます。少なからず影響力のあるメディアはもう少しどうにかしてほしいものです。だいいち、ここのところイラク戦争のことばかり報道されていて、あの拉致問題はいったいどこへ行ってしまったのでしょう。まだ何も解決していないはずです。こんなに蔑ろにされていいものでしょうか。拉致問題のような場合は特に世論の力は大きいはずだし、被害者の家族の方たちはこうしている今も活動しているのですから、もっと報道されてしかるべきです。
◆とにかく、メディアにばかり左右されず、しっかりと見極める目と感性を養っていかなければと常々思っています。私は最近になって「テツandトモ」を知ったのですが、もしかするともうすでに大ブレイクも後半にさしかかっているのかもしれませんね。それにしてもいったいどこが面白いのか皆目わかりません。


■■ 3.21.FRI■■
◆いま夜の11時を過ぎたあたり、外で若者の言い争っているのが聞こえています。張り裂けんばかりの勢いで何人かが喚いているようです。私の事務所は居酒屋の建ち並ぶ区域にあり、こうしたいざこざはよくあることで、時には取っ組み合いにまで発展し、シャッターを蹴飛ばす音や立て看板の倒れる音、追いかける足音から女性の悲鳴まで、週末ともなるとその騒々しさは尚更で、それは8年前ここに事務所を構えた頃からなにも変わっていないようです。それぞれに言い分はあり、声を張り上げて言い争ったところで埒があかないというもの、割って入る声も負けず劣らずだし、止める女性も金切り声。ここまで来ると事の発端などもう問題ではないのだろうし、とにかく相手の言うことに食ってかかり、ギャフンと言わせてやりたいだけなのでしょう。一瞬の静けさの後、何やらバタバタと音がします。すぐに上がった叫び声から掴み合っているのだと察しがつきます。女性の金切り声は金属音と化し、いくつかの声帯はすでにひずんでいてまるでジミ・ヘンドリックスのギターのようでもありあるいはジョン・コルトレーンのサックスのようでもあり、バタバタとした足音だけが妙に人間らしいと思えてきます。再び罵り合う声がして、どうやら組み合っていたふたりは分けられたようです。互いの味方に羽交い締めにでもされたのでしょう、それでもどうにかして叩きのめしてやろうと躍起になっている姿が目に浮かんできます。
◆こうして原稿を書いている間にいつしか気がつけばあたりは静けさを取り戻し、階下のスナックからはカラオケに酔いしれている調子の外れた唸り声が微かに聞こえてくるし、さっきまで野次馬然として窓のあたりで外を眺めていた猫はつまらない顔をして私の膝に飛びのり、キーボードを叩いている指にちょっかいを出してきて、煩いとばかりに頭を小突くと一目散に退散します。いつもなら後ろ足で蹴り上げては前足で引き寄せて親指の付け根のふっくらとしたあたりをかじるのに、今日に限っては猫の勢いも失せているようです。時々通りすぎる人の声は週末を楽しむいつもの和やかさを思い出し、次の店に向かってゆっくりと消えてゆくのでしょう。

  この深淵の内部で わたしたちは瞼を閉じている
  どうにかしなければと おもっている
  なにをどうにかしなければならないかは わからないまま
  ただひたすら どうにかしなければとおもっている

  はるか彼方 遠いむかし
  わたしたちが海の中にいるころのことをおもいだす
  とても純粋な
  そう、まじりけのない あるがままの姿で
  わたしたちはただ 漂うばかり
  まわりのほどよいあたたかさのなかで
  曖昧な記憶が蠢いている

  もしかするとわたしたちは愛し合うために生まれてきたのでは と
  その蠢く曖昧な記憶は囁いている
  よどみに浮かぶうたかたよろしく
  久しくとどまるところ しらず かつ消えかつ結び と

  ひとの感覚なんて単純なものだ
  ふとしたことでなくなっていた記憶は蘇り
  なくなっていたとおもっていたのは じつはそうではなく
  からだのなかの水分のどこかで漂っていて
  それ自体を忘れていただけなのかも
  湧きでる たましきの囁きは
  それをただ おもいださせてくれるだけなのかもしれない

  この深淵の内部で わたしたちは瞼を閉じている
  どうにかしなければと おもっている
  なにをどうにかしなければならないかは わからないまま
  ただひたすら どうにかしなければとおもうことで
  なにかが成し遂げられようと おもっていて


■■ 3.18.TUE■■
◆この前の土曜日、宮城は加美郡色麻町で、私の艶笑譚と語りと相方ちだ原人の紙芝居のユニット「ほでなすアワー」のライブを行ってきました。いやあ、これがなんともすごかったのです。なにがって、お客さんがです。会場はスナック・フレンドという、田舎町によくある類のスナックです。まずここのママが強烈な方で、すごいという噂は聞いていたのですが、まさに噂どおり、笑わせに行ったはずの私たちの方が笑わせてもらったという具合です。そしてお客さんもこのママを慕ってやって来るというだけあって相当の方々で、見事に中年のおじさんおばさんばかりでした。おじさんおばさんと言うか、おんちゃんおばちゃんと言った方が合っているかもしれません。7時半開場だというのに7時前からやって来るし、7時半にはすでに頂点と言わんばかりの盛り上がり。まさに絶好調なのです。8時から出番の私たちは控え室で待っていて、あまりの盛り上がりに少々不安を覚え、このままカラオケにでも突入したら今日のライブは中止になるかもしれないと心配させられるくらい。どうにかママの一喝でライブは始まったものの、始終私語無駄話で場内は騒然たるものでした。これはもう子供だと思えるほどのはしゃぎぶりで、見ているこちらの方が可笑しくなってきます。なにより面白かったのは、相方が紙芝居をやっているときのこと、みなさん真剣に見入っていて、肝心な場面では拍手と歓声が沸き上がるのです。相方の時間は私は横でじっとしているわけですが、おんちゃんおばちゃんの紙芝居に食い入る図はどう見ても小学生そのもので、私は笑いをこらえるので精一杯でした。そんなこんなで、とりあえずライブは無事終了し、結果は大盛況。みなさんとても喜んでくださり、なによりでした。
◆そんなこんなあり、そしてどうにか確定申告も最終日には済ませ、ほっと一息ついているところです。それにしても今年の申告はそれはもうひどいの一言で、こんなのでよくやっていたなと思えるほどひどいのです。売上げですよ売上げ。最悪というか最低というか、もうこれ以上ないというくらいひどいのです。まったく、書いていて嫌になってきます。こんなもの、申告したところでなんになるのかと思わざるを得ない状態です。私もついに落ちるところまで落ちたと。いやはやなんとも言葉がありません。まあでも考えてみれば、ここまで最悪でもどうにか生きているし、それなりに好きなこともやっていて、楽しいこともあって、決して悪いことばかりではないのだし、とりあえず落ちるところまで落ちて、もうこれ以上落ちようがないところまで来て、そう考えると少しは気持ちも楽になるというもので、これで尚かつ、上を目指さずことなく、この落ちたところでこれはこれで良しとし、ほどよく諦め、無理なく心地よく漂っていればもしかしてこれ以上の幸せはないのかもしれないとさえ思えてきます。
◆ふだん艶笑譚を語っていて思うのですが、艶笑譚はその地域その時代の生活事情をとてもよく表していて、単に笑える艶話としてだけではなく、庶民の生活苦や差別、虐げられた性など、生きるための辛さや不条理も潜んでいたりします。それは往々にして闇に葬り去られがちな人々の苦難を垣間見ることにもなるのです。しかし、それら負の状況さえもひとまとめに笑いのめすことで、自らの現状とどうにもならない現実を受け入れて、ほどよく諦め、人々は大いに和らいだ心を養ってきたように思えるのです。なんとも逞しいものだといつも感心させられてしまいます。
◆というわけで、今週の土曜日は仙台の居酒屋「佗び助」で私の独演会があります。前回外したと思ったら実は大受けだったという、いわく付きのところです。今回はどうなることやら、とにかく楽しみです。


■■ 3.14.FRI■■
◆一昨日、今年5回目となるロードサービスを受けました。ガス欠2回にバッテリー上がり3回。この日は2度目のガス欠でした。それは三陸の田舎町にある知人の経営するカフェに行った帰り道、夜の峠で起こりました。登りにさしかかったあたりから何やらエンジンがプスプス鳴り始め、瞬間的に減速しだしたのです。これはまずい。以前何度か経験していたのですぐにガス欠だと気づきました。通常ならインジケーターを見ればわかるはずのもの、私のポンコツのそれは壊れていてまったく役に立たない状態でした。いつもは走行距離を確認してガソリンを入れるようにしていたのですが、この日は久しぶりのドライブ、気がゆるんでいたのでしょう。こんなところで止まってしまってはさあ大変。時間はすでに9時半をまわっているし、不幸にも携帯電話は料金未納のために使えないし。どうにか峠だけは越えてくれと祈っていて、その祈りはなんとか天まで届いたらしく、道は下り始めました。後は野となれ山となれ、案の定少しするとエンジンからは轟音が消え、暗闇の中にヘッドライトのラインだけがのびて、あたりは静寂に包まれました。それでも微かにタイヤの擦れる音は聞こえてきます。すっかり重くなったハンドルを必死に操り、前方に見えてきた民家の灯りを頼りに止まるところまで下りてゆこうと決めたのです。まあ決めるも何もそれしかできないのですから。そこはちょっとした集落でした。国道沿いに家々が立ち並び、自動販売機の灯りも見えます。これでなんとかなると思った頃、灯りのついている家の前で車は静かに眠りにつきました。公衆電話を探してしばらく歩いたものの、一向にそれらしきものは見当たらず、仕方なく車まで引き返し、その家で電話を借りることにしました。はたしてどんな人が出てくるのか、こんな夜中、怒られたりしなければいいのだがと恐る恐るチャイムを押しました。すぐに出てきたのは60前くらいのおじさんでした。不審者ではないことを主張するために私は玄関の開くのを待たずに事情を話していました。こんなわけで電話を貸して下さいと、もうこれ以上ないくらいの丁寧な猫撫で声で。おじさんは深々と頭を下げている私に何か言葉をかけて家の中に入れてくださいました。とりあえず私は電話をかけました。しばらくやりとりがあり、ロードサービスは1時間後に来るということになりました。おじさんには30分ほどで来ると伝えました。いつの間にかおばあさんがいます。80は過ぎているでしょう。急須にお湯を入れています。どうやら私にお茶を入れてくださっているようです。「寒いがら入らい」とこたつを指し、おじさんも座りました。おばあさんは「あったまらい」と言って湯のみを差し出します。すでに10時を過ぎています。こんな夜中、どこの馬の骨ともわからない私を家に入れて電話を貸してもらっただけでも恐縮している私は「申し訳ありません」やら「すみません」やら「ごめんなさい」やら、ただ頭を掻きながら言うだけです。おじさんは退屈だろうとテレビを付けて「来るまで見でらい」と言います。もうこうなったからにはせっかくの親切、掘りごたつに足を下ろし、お茶をすすり、有り難くいただこうと決めました。おじさんは「食べらい」と言ってバナナを一本差し出します。おばあさんは「ご飯食ったのすか」と訊いてきます。いやはやなんとも涙が出そうになりました。結局40分ほどでロードサービスはやって来ましたが、それまでおじさんとおばあさんは何かと話しかけてくださり、私はもう少しここにいてもいいとさえ思える時間を過ごしました。
◆何度も何度もお礼を言い、私は家を出ました。さてこれでやっと帰れると思った矢先、ロードサービスの人が何やら浮かない顔で近寄ってきます。ガス欠と聞いて飛んで来たが肝心なガソリンを忘れてきたと言います。通常なら驚く場面、しかしいくつかの試練をすでに乗り越えていた私にとってそれは大したことではありませんでした。「そうですか」と一言。スタンドまで牽引させてくださいと言う彼に「すみません、お願いします」と返します。幸いにも私の家とロードサービスセンターは近くだったこともあり、とにかく家を目指してスタンドのあるところまで行きましょうということになりました。途中、気を使ってか、サービスの彼は何かと話しかけてくれてくれます。共通の話題は私のポンコツしかないにもかかわらず、これまで故障はあったかとか、燃費はどうだとか、古いけれどあれはいい車だとか、僅かな話題を見つけては話しかけてくれ、私もそれに応えます。ぎこちなくも微笑ましいふたりという感じです。スタンドはもうすぐ家に着くという頃にやっと開いていました。そんなこんなで30キロほどだったでしょうか、私は重装備の助手席でなんとも心地よい時間を過ごしました。
◆なにはともあれ、見ず知らずの人の親切と心遣いに助けられ、私の災難は一転して忘れがちな人の温もりを思い出させてくれたのでした。


■■ 3.11.TUE■■
◆いつも酒の臭いをプンプンさせて、白髪まじりの無精髭にぼさぼさの髪、どう見ても薄汚く、妙に張りのあるやけに大きな声で、小難しい話しや、嘘か本当か知れたものではない自慢話ばかりするものだから、誰からも迷惑がられたオヤジがいました。三十五反という名の古本屋を経営していて、それは経営と言うには程遠く、身なり同様、埃まみれの雑然とした、ほとんど整理のされていない、まるで倉庫のようなところで、客を無視していつも酒を酌んでいたのです。寂しがり屋だったのか、誰彼となく見つけては酒と自慢話の相手をさせていました。私の事務所の隣にあるカフェにもよく来ていて、飲めない私も肴にされていました。酔っぱらっていないときはそれなりに心優しい穏やかな性格を垣間見せるものの、それはごく稀で、ほとんどはアル中を呈していました。飲めば飲むほどに口調は激しくなり、世の中を批判し出します。ある昼間、めずらしく素面でやって来たことがありました。ここぞとばかりに私は相手を買って出ました。酔っぱらっていてもオヤジの言うことはそれなりに的を射ていて、私は極力話しだけは聴くようにしていたのです。それが素面とあっては尚のこと聴かずにはいられません。話のほとんどは布施辰治のことか町おこしについてです。私が真剣に聴くものだからますます調子に乗ってきて酒も進み、もうとどまるところを知らず。結局話は6時間に及び、最後はへべれけになって転がりながら帰って行きました。
◆こんなこともありました。やはり隣のカフェでのこと。フォークシンガーの高田渡を招いてライブを行ったとき、オヤジも客として来たのです。もちろんいい気分でです。この時のライブはいまでは伝説となったもので、まさにアル中真っ最中の頃で、一曲をまともに歌えない状態で、歌詞の一番だけを歌うとあとは同じだからと止めてしまい、だらだらとしゃべり、また徐に一番だけを歌うという具合で、どうにかワンステージを終えると、今度は床に横になって寝てしまい、誰かが時間ですよと声を掛けるとまた起きて歌うという始末。それでもこれが高田渡だと客は大喜びです。そんな中、オヤジは徐々に野次を飛ばし始めました。そして高田渡の気にさわったのか、アル中同士の口争いになり、業を煮やした私はついにオヤジをつまみ出してしまいました。このときも結局転がるように帰って行きました。
◆そんな三十五反のオヤジは7年前、日頃の不摂生がたたり肝硬変で倒れてしまいました。生死の境を彷徨い、どうにかもちこたえたものの、店は処分せざるを得なくなり、生活保護を受けて暮らしていました。そして昨年秋の夕さり、久しぶりにオヤジを見かけたのです。町の駅近く、線路際に佇んでいるのを、私は仕事で急いでいた車から見つけたのです。ほんの一瞬でした。倒れて以来はじめて見たオヤジはすっかり歳を取っていて、それでも表情はとても穏やかで、微笑みすら浮かべていました。駅裏のアパートに住んでいると噂で聞いていた私は、すっかり回復したかのように見えたオヤジにほっと胸を撫で下ろしたものです。しかしオヤジはなんと昨年8月には死んでいたのです。昨夜書店でページを捲った「別冊東北学5号」に、ある方の追悼文が載っていたのです。布施辰治顕彰活動を共に裏で支えてこられたパートナーの方のものでした。私は一瞬身動きがとれなくなり、その場で立ちすくんでしまいました。あのオヤジが死んでいた。早速それを買って近くのカフェで読みました。生活保護を受けるようになってから、布施辰治の直筆原稿解読家として「獄中ノート」や難解と言われる「大正日記」の解読に余生を捧げてきて、そして昨年8月5日、肺に水がたまったり、肝硬変、食道癌、静脈瘤など、多臓器不全で死んだそうです。享年69歳。眠るように死んでいったそうです。遺体は本人の意志により東北大学に献体されたとのこと。あの穏やかな表情のオヤジを見たのは確かそれよりももっと後だったような、少なくとも秋だったはずで、だとするともしかしてあれはオヤジの亡霊だったのか、それとも別人を見間違ったのか。いや、確かに三十五反だったはず…。
◆オヤジの名は櫻井清助。古本屋の三十五反は「三十五反の帆を巻き上げて、行くよ仙台、石巻」と唄われた遠島甚句からとったものらしく、金華山付近には十島と言われる大小十の島があり、この辺りは昔は漁場として栄えていて、きっとこの町がふたたび栄えるために自らが帆になることを想ってでも付けたのでしょう。追悼文にはこうありました。町おこしのために布施辰治記念館を建ててこの町を人権擁護のメッカにして修学旅行生を呼び込もうと目論む「市民の会」に対し、何よりもまず資料の解読と整理を主張して、そして孤立して行ったと。「資料の解読なんて政治家の点数かせぎにはならない」からと、共鳴者が少ないのはわかっていたようだし、顕彰碑ができれば連中の熱も冷めるだろうとも言っていて、事実、それを建てたあと顕彰会は消沈してゆきます。書痙を患っていた布施辰治の日記はミミズののたうちまわったような字で書きなぐられていて、一文字に一晩、一ページに一週間を費やしたこともあったそうです。2000年には「布施辰治資料研究準備会」を立ち上げ、翌年「誕生七十年記念人権擁護宣言大会関連資料集」を刊行し、その後ふたたび入院。「メシよりも酒」を身上とするオヤジは確実に病魔に冒されていたのです。それでもワープロを病室に持ち込んで「大正日記」の解読は続けていたそうです。「別冊東北学4号」の取材が入ったときの「顕彰活動を引き継ぐ若い人に一言を」に対し、「特にありませんね。自分でできないことを人にいってもしょうがない」と言ったそうです。この追悼文の著者に送ったオヤジの手紙も紹介されていました。要約するとこうです。「この町で何か文化的な箱物を作ることは今の時点では反対だ」「事を為すには時間を惜しんではならない。コンセプトがきちんとしていなければ必ず失敗する。一村一品運動などみな金太郎アメではないか、文化は文明と異なってコピーはできない」「昔から言われている。良い土さえ創れば放って置いても作物は育つと」。「誕生七十年記念人権擁護宣言大会関連資料集」刊行の際、代表として巻頭語を書いてほしいと頼んだこの著者に、一度は取り組んだものの「私に書くことがないのだと判った」と断ったそうです。これは櫻井一流の矜持だと追悼文は締めくくられています。
◆どうにか最後までこの追悼文は読んだものの、途中何度も目がかすみ、私は読むのを中断しなければなりませんでした。なんともオヤジらしいエピソードばかりです。あの日6時間も付き合わせられた時もそんなことばかり言っていたものです。それにしても気になるのはあのオヤジの亡霊です。確かにあれは秋だったはず。追悼文に酒席での名言だとしてオヤジのこんな言葉がありました。「女は春を売る。男は秋を売る」。オヤジ、安らかに…。


■■ 3.7.FRI■■
◆ここのところ『べてるの家』に関する本ばかり読んでいたのですが、また新たに『降りていく生き方/横川和夫著(太郎次郎社刊)』という本が出版され、早速読みました。相変わらず感動させられっぱなしで、『べてる』の呪縛からますます抜け出せなくなってしまいました。この本には、『自分のことは自分で考え、自分で決めて行動するという当事者性と、自分の思いを言葉にすることの大切さ』が通奏されていました。あとがきの中で、『当事者性を奪われているのが、統合失調症などの精神障害を抱えた人たちである』という、ソーシャルワーカーで『べてる』の最重要人物でもある向谷地さんの訴えを受けて、著者はこんなことを言っています。『かつてオランダの学校教育を知るために、メディア数社の論説・解説委員とともに、オランダの教育省や学校を見学したことがある。ちょうど日本では、きびしい校則が問題になっていたときだった。行くさきざきで「校則はありますか」という質問をくり返した。どこに行っても校長からは同じような言葉が返ってきた。「校則はあります。それは『人間らしく行動すること』ということです」 驚いて、「それだけですか」「人間らしく行動するとは、具体的にどんなことですか」と、私たちは矢継ぎばやに質問した。「それは生徒が自分で考え、自分で決めることです。あまり細かい規則をつくると、生徒は自分の頭で考えなくなるので、つくりません」このオランダの中学校長の言葉は、日本の学校教育が、生徒の当事者性をいかに奪ってきたかをみごとに浮き彫りにしてくれていると思う』と。当事者性に関してはよくわかるのですが、このオランダの校則『人間らしく行動すること』とは、はたしてどういうことなのでしょう。他の動物とは違う、人間ならではというところでのことなのか、それとも本来持ち合わせてしまった習性に従ってということなのか。いまひとつピンとこなかった私は、数人の知人に質問してみました。するとみな返答に困り、辛うじて出てきたのは、相手を思いやるとか、優しくするとか、悲しませないとか、嘘をつかないとか、そんな類でしたが、どうもよくわからないというのが正直なところのようでした。まあいずれにしても、校則なので、事ある毎にそれを考え、自分で決め、行動するというところに意義があるのでしょう。
◆20年ほど前、菜食を心掛けたことがあります。菜食と言うよりも動物を食べないと言った方があっているかもしれません。理由はなんのことはない、愛護論的見地から動物を食べない方がいいのではと思っただけで、元もと人間は雑食、ならば動物くらい食べなくても生きてゆけるはずだと、単にそう思っただけです。ある日目覚めたらふとそんなことを思い、そして食べ物をコントロールできるのはもしかして人間だけかもしれないと、試しにやってみようと思ったのです。なぜそう思ったのか、理由は特にありませんでした。なんとなくです。なんとなく動物は食べない方がいいし、人間にしかできないことをやってみようと、そう思っただけです。その頃私は渋谷のアパートで一人暮らしをしていました。食事はもちろんすべて外食です。そもそもがいい加減な理由からなので、特に菜食専門店に行くわけでもなく、それまで通っていた食堂やカフェなどでどうにか済ませていました。もちろん好きだった牛丼屋には行きませんでしたが…。メニューはラーメンだとか野菜炒め定食だとか納豆定食だとか、比較的肉類の少ないものを選んで注文していました。それでもチャーシューが入っていたり、豚バラ肉が入っていたり、大抵は動物の肉が入っていて、
それをよけて食べていただけです。そんな具合なので、これはやってられないとすぐに気づき、結局ひと月ほどで止めてしまいました。肉そのものは食べなくてもそれがしみついた汁は飲むだろうし、出汁にだって豚や鶏の体が使われているのですから、肉をよけても所詮は動物を食べていることに変わりはないだろうし、残した肉は捨てられるだけで、私が食べないからといってその分動物が殺されないというわけではないのですから。まったくバカなことをしていたものです。止めたら止めたで、今度は待ってましたとばかりに牛丼屋に行く始末。いやはやなんとも言葉がありません。ただその間、快便だったことはいまでもよく覚えています。大便のキレがよく、拭かなくても大丈夫なほどでした。
◆そんなことはいいとして、なにはともあれ、思いついたことはとりあえずやってみて、無理だったり無駄だったりしたらすぐ止めるという、なんとも動物的な行動ばかりしている私にとって、もしかするとそれ自体が私の当事者性なのかもしれません。なんとも哀しい気持ちになりますが、それでも「後悔するかどうかはわからないのでとりあえずやってみる」という解釈での『後悔先に立たず』を座右の銘とし、私自身の思いの言葉としてはあるわけですから、これを『べてる』流の、当事者性を見出すこと自体に人間らしさがあり、自分の思いを言葉にするのが人間らしい行動だというところで解釈すれば、こんな私でも一応人間らしいと言えば言えるのかもしれません。


■■ 3.4.TUE ■■
◆糸井重里の運営するホームページ「ほぼ日刊イトイ新聞」の中に、鳥越俊太郎の「あのくさ、こればい!」というコラムがあります。「3分間で、最近のニュースを知る」という、ニュースや新聞の記事から面白いものを取り上げてなんやかや述べられているコーナーです。「ほぼ日」の数あるコラムの中でも人気の定番コーナーで、私はほぼ毎日面白く読んでいます。
◆昨日のここでこんな記事が紹介されていました。「フライング拍手」というタイトルで、コンサートの時に演奏が終わるや否やすぐに拍手をする人がいて「かみしめていた余韻を、いきなり拍手に破られた。名演への感激が一気に冷めてしまった」という記事です。どうやらマーラーの「交響曲第10番」の最後、弦の響きがゆるやかに減衰して音がなくなった途端、聴衆の一人が、この曲は知っているんだと言わんばかりの自己顕示欲的拍手を浴びせかけてきて、それに憤りを感じたということです。この手の「フライング拍手」は日本ではとりわけ目立つそうで、思い起こせば私にも思い当たる節があり、何度かそのような場面に出会したことがあります。確かにちょっと早すぎやしないかと思わせるタイミングで、如何にも曲を熟知した風の人に見受けられます。大抵は指揮者や演奏者の、ここで拍手をくださいという仕草を察知してからするものですが、往々にしてありがちな行為でもあるようです。ただこれは音楽のジャンルによって少し違ってくるようで、ジャズやブルース、ロックなど、観客が身体を動かしたり、声をあげたり、興奮や感動を露わにする類の音楽では、曲が終わる前に拍手をするというのが当たり前のようです。この「フライング拍手」が迷惑なのは、ことさらクラシックや現代音楽など、静かに聴き入る音楽に限られるものかもしれません。
◆演奏している立場の者としては、やはりお客さんの反応は気になるところで、それによってそのときの演奏の善し悪しを判断することもあります。私はふだんレゲエのバンドをやっているのですが、大抵はみなさんが踊り出すことでそれを判断します。レゲエは踊ってナンボという所詮はダンス音楽ですから、お客さんが如何にノッて踊り出すかにあります。それでもあまりにもそれが激しく、異常に盛り上がってしまうとかえって不安になってきたりもします。結局なんでもいいのかとか、とにかく大きな音で演奏していればいいのかとか、わからなくなってくるのです。やはりこちらにもツボというものがあり、ここで受けて欲しいとか、ここでは静かに聴いて欲しいとか、そんな思惑はあるものですが、それがうまく伝わらないとそんな結果に陥ってしまうのです。俗に「バカノリ」と言うもので、一度こうなるともう手がつけられません。それでもみなさん楽しんでいるのだし、始終座っていられるよりはまだましというもので、これはこれで良しとしようと諦めてはいるのですが…。
◆以前、チェリスト、ヨーヨー・マの演奏会に行ったときのこと。ステージでは、濃紺のスーツに白いワイシャツ、ネクタイという姿のヨーヨー・マが、全身を使って感情を込めてチェロを弾いていました。きっとブランド品の高価なスーツなのでしょうが、少し離れた席の私にはどうしても会社員の背広にしか見えず、どう見ても町を彷徨く会社員にしか思えなかったのです。しかも悪いことに、以前付き合いのあった印刷会社のある営業マンに顔が似ていて、体型までもそっくりでした。さらに陶酔の表情は、お酒を飲んでいい気分に浸っているようにも見えてきて、横に揺れたり後ろに仰け反ったりと、まさに酔っぱらいそのものでした。一度そう見えてしまうともうどうにもなりません。いくら振り払おうとしても、なんとか打ち消そうとしても、酔っぱらってふらふらになった印刷会社の営業マンから抜け出すことはできませんでした。きっと名演だったはずのリサイタル、感動などとは程遠いもので、なんとも味の悪い余韻だけが残ってしまいました。
◆なにはともあれ、せっかくの名演もひょんなことで打ち破られてしまうのですから、なんとも恐いものです。


 

+++ kilie.com/mado/